山崎合戦 明智光秀本陣跡
明智光秀が「山崎の戦い」で本陣を置いたとされる場所は、京都府乙訓郡大山崎町にある境野(さかいの)一号墳です。この場所は、眼下に広がる戦場を一望できる高台にあり、戦況を指揮するのに適した場所だったと考えられています。

山崎合戦

1582年(天正10年)、「本能寺の変」で織田信長を討った明智光秀は、天下統一の野望を抱きます。しかし、中国地方で毛利氏と対峙していた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、驚異的な速さで引き返し、光秀軍と山城国(現在の京都府)と摂津国(現在の大阪府)の境にある山崎で激突します。これが「山崎の戦い」です。
光秀は恵まれた地形を活かし、境野一号墳に本陣を構えました。この古墳は、周囲より高く、南西に広がる合戦場を見渡せる絶好の場所でした。しかし、秀吉軍は圧倒的な兵力で光秀軍を追い詰め、わずか数時間で勝敗が決します。敗れた光秀は、勝龍寺城(現在の長岡京市)に一時退却した後、近江坂本城を目指して落ち延びる途中で命を落としました。
歴史
「山崎の戦い」と本陣跡
明智光秀本陣跡とされる場所は、天正10年(1582年)の「山崎の戦い」で、本能寺の変で織田信長を討った光秀が、備中高松城から引き返してきた羽柴(豊臣)秀吉軍と激突した際に本陣を置いた場所とされています。この戦いは、わずか数時間で秀吉軍の勝利に終わり、光秀の天下はわずか13日で終わることになりました。
複数の候補地
光秀が本陣を置いた場所については、いくつかの説があります。
-
恵解山(いげのやま)古墳:
-
京都府長岡京市に位置する古墳で、一説には光秀が本陣を置いたとされています。
-
発掘調査では、当時の銃弾の跡が発見されたとされ、戦いの激しさを物語っています。
-
-
境野(さかいの)一号墳:
-
京都府乙訓郡大山崎町にある前方後円墳で、「御坊塚(おんぼうかづか)」とも呼ばれています。
-
ここは、地形的に周辺より標高が高く、戦場となった小泉川周辺を見渡せるため、戦況を把握し指揮を執るのに最適な場所であったと考えられています。
-
周辺からは空堀跡や火縄銃の弾も見つかっています。現在は、一部が住宅街や墓地になっています。
-
古墳を利用した本陣
明智光秀が本陣を置いたとされる場所は、いずれも古墳を利用しています。これは、古墳の小高い丘のような地形が、陣を構えるのに適していたためと考えられます。
戦いとその後の歴史
-
山崎の戦いは、天王山と淀川に挟まれた狭い場所で行われました。光秀軍は、この地の利を活かそうとしましたが、兵力で勝る秀吉軍に圧倒されました。
-
戦いに敗れた光秀は、いったん勝龍寺城(京都府長岡京市)に逃げ込みますが、その後、坂本城を目指して脱出する途中で、落ち武者狩りの村人に襲われて命を落としました。
-
この戦いに勝利した秀吉は、信長の後継者としての地位を確立し、天下統一への道を歩み始めました。
現在、大山崎町には「山崎合戦古戦場跡(天王山夢ほたる公園)」などの史跡が整備されており、石碑や案内板が建てられています。また、大山崎町歴史資料館では、山崎の戦いや地域の歴史について詳しく学ぶことができます。

山崎合戦 犠牲者供養塔

サントリー〈天然水のビール工場〉供養塔内供養塔
-
明智光秀が陣を敷いたとされる「境野一号墳」の近くに、「山崎合戦供養塔」と歴史説明板があります。
-
工場の敷地内にあるため、工場見学を申し込むことで見学が可能です。
山崎合戦 明智光秀本陣跡 場所情報
〒618-0081 京都府乙訓郡大山崎町下植野宮脇1−107
アクセス方法
・駐車場はありません。
・JR京都線 山崎駅 :徒歩 40分 2.9km
・阪急京都線 大山崎駅:徒歩 38分 2.7km
・阪急京都線 西山天王山駅:徒歩 18分 1.3km
まとめ
大山崎町には「山崎合戦古戦場跡(天王山夢ほたる公園)」などの史跡が整備されており、石碑や案内板が建てられています。また、大山崎町歴史資料館では、山崎の戦いや地域の歴史について詳しく学ぶことができます。


