槇島城跡 足利義昭ゆかりのお城(室町幕府終焉の地)

槇島城の歴史

槇島城は、現在の京都府宇治市に位置した平城で、かつては巨椋池(おぐらいけ)に浮かぶ島に築かれた天然の要害でした。その歴史は古く、歴史的のにも重要な出来事の舞台となったお城になります。

築城と初期の歴史:

  • 承久3年(1221年):長瀬左衛門によって築城されたと伝えられています。

  • 室町時代:地元の有力豪族である真木島氏(槇島氏)の本拠地として栄えました。文明元年(1469年)には文献に「館」として登場し、応仁の乱の騒乱にも巻き込まれています。

  • 16世紀初頭:細川氏の被官である赤沢氏によって城郭として強化され、文献でも「城」と呼ばれるようになります。細川政元も一時的に居城として利用し、将軍足利義澄を招くなど要衝として機能しました。

室町幕府の終焉と「槇島城の戦い」:

  • 元亀4年(1573年):この城は、室町幕府15代将軍・足利義昭が織田信長に対して兵を挙げた「槇島城の戦い」の舞台として特に知られています。信長と対立を深めていた義昭は、家臣である真木島昭光が守る槇島城に籠城しました。

  • しかし、信長の大軍による猛攻を受け、義昭はわずか数日で降伏を余儀なくされます。この戦いの結果、義昭は京から追放され、室町幕府は事実上滅亡しました。この出来事をもって、槇島城は「室町幕府終焉の地」として歴史に名を残しています。

廃城へ

  • 義昭退去後、槇島城は細川昭元、塙直政、井戸良弘らが城将となりました。

  • 文禄元年(1592年)頃:豊臣秀吉がこの地の北側に伏見城を築城すると、槇島城の戦略的価値は薄れていきました。

  • 文禄3年(1594年)頃:伏見城築城の際、宇治川の流路変更や槇島堤の工事に槇島城の石垣などが利用されたとも言われ、その後、廃城となりました。

槇島城の特徴

  • 天然の要害: 琵琶湖から流れ出る宇治川沿いに造られ、かつてこの一帯に広がっていた巨椋池(おぐらいけ)の中に浮かぶ島に築かれました。周囲は水路に囲まれており、まさに天然の要害として機能していました。

  • 平城: 分類としては平城であり、高い山などに築かれた山城とは異なります。

これらの特徴から、槙島城は水利を活かした防御性の高い城であり、日本の歴史における重要な転換点となった「槙島城の戦い」の舞台となった場所として記憶されています。

槇島の合戦

槇島の合戦は、元亀4年(1573年)7月、織田信長と室町幕府第15代将軍・足利義昭の間で行われた戦いです。この戦いにより、足利義昭は京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡しました。

合戦の詳細

  1. 背景: 織田信長は、当初は足利義昭を擁立して上洛し、室町幕府の再興を助けましたが、やがて信長の勢力拡大と義昭の信長に対する反発から両者の関係は悪化しました。義昭は信長包囲網を形成し、各地の反信長勢力と結びついて信長に対抗しました。

  2. 開戦までの経緯: 元亀4年(1573年)2月頃から、信長と義昭の関係は決定的に悪化し、武力衝突が避けられない状況となりました。信長は京都周辺の義昭方勢力を次々と攻め、義昭を追い詰めていきます。7月には、義昭は京都から南へ下り、家臣である真木島昭光が本拠とする槇島城に籠城しました。

  3. 合戦の展開:

    • 信長の大軍: 信長は、二条御所を包囲して開城させた後、約7万騎ともいわれる大軍を率いて槇島城へ向かいました。

    • 槇島城への攻撃: 織田軍は、宇治川を挟んで槇島城を包囲。宇治川の上流と下流の二手に分かれて渡河作戦を行い、城を攻め立てました。

    • 城の落城: 槇島城は巨椋池に囲まれた難攻不落の城と見られていましたが、信長の大軍の猛攻の前には無力でした。織田軍は槇島城の外構を突破し、火を放ちながら本城に迫りました。

    • 義昭の降伏: 城が危機に瀕した義昭は、織田軍の攻勢に恐怖し、信長に講和を申し入れました。信長はこれを受け入れ、義昭は幼い息子である義尋(ぎじん)を人質として差し出し、槇島城を退去しました。

4.合戦の結果:

    • 義昭の追放: 義昭は槇島城を退去し、河内の津田(現在の大阪府枚方市津田)へ落ち延びました。これにより、足利義昭は京都から完全に追放されることになりました。

    • 室町幕府の事実上の滅亡: 将軍が京都から追放されたことで、足利尊氏以来約240年続いた室町幕府は事実上滅亡しました。この戦いは、室町幕府終焉の地として日本の歴史に刻まれています。

    • その後の槇島城: 義昭退去後、槇島城は織田氏の管理下に置かれ、細川昭元、塙直政、井戸良弘らが城将を務めました。しかし、豊臣秀吉による伏見城築城に伴い、宇治川の流路が付け替えられたことで、槇島城の戦略的価値は失われ、文禄元年(1592年)頃には廃城となりました。伏見城築城の際には、槇島城の石垣なども槇島堤の工事に利用されたため、現在では遺構はほとんど残っておらず、槇島公園内などに石碑が残るのみとなっています。

槇島の合戦は、織田信長による天下統一事業の大きな節目となる重要な戦いであり、室町幕府の終焉を決定づけた歴史的な出来事として位置づけられています。

現在の状況

槇島城跡は現在、残念ながら当時の遺構はほとんど残っていません。

住宅地の中にあり、石碑が残るのみです。宇治市槇島町の薗場児童遊園や槇島公園に、石碑と案内板が設置されています。当時の巨椋池も完全に埋め立てられており、周辺は宅地開発が進んでいます。

薗場児童遊園

〒611-0041 京都府宇治市槇島町薗場29−92

白塗りの地蔵さんが祀られています。(関係性については不明です。)

槇島公園

アクセス方法

薗場児童遊園

〒611-0041 京都府宇治市槇島町薗場29−92

公共機関利用
JR宇治駅   徒歩17分 1.3km
京阪宇治駅  徒歩23分 1.6km
JR小倉駅  徒歩29分 2.1km
近鉄小倉駅  徒歩28分 2km

車で行かれる場合は、住宅地になり、道幅も狭く駐車スペースもないの注意しましょう。

槇島公園

〒611-0041 京都府宇治市槇島町北内156

公共機関利用
JR宇治駅   徒歩19分 1.4km
京阪宇治駅  徒歩24分 1.7km
JR小倉駅  徒歩31分 2.2km
近鉄小倉駅  徒歩30分 2.2km

車で行かれる場合は、道幅も狭く駐車スペースもないの注意しましょう。

まとめ

槇島城跡は、歴史的な重要な舞台となった場所であり、当時の遺構はほとんど残っていませんが、石碑や説明板が設置されているのみで、当時の面影を偲ぶことができる場所となっています。

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