【本能寺の変】があった場所!本当は現在の本能寺の場所では起こっていない!
『本能寺の変』天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に滞在していた織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件の場所です。現在の本能寺のある場所で起こった事件ではない事をご存知でしょうか!
目次
本能寺の変
だれもが知っている、本能寺の変は、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺寺に滞在していた織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件である。
この事件は、日本の歴史において非常に重要な転換点となったといわれています。
※大河ドラマでもよくやっている『敵は本能寺にあり』と言って明智光秀が織田信長を討ち取る舞台になった場所です。
事件の概要
- 発生: 1582年6月2日早朝
- 場所: 京都・本能寺(現在の京都市中京区)
- 当事者: 織田信長、明智光秀
- 内容:
- 明智光秀が約13,000の兵を率いて本能寺を急襲。
- 織田信長は寝込みを襲われ、包囲されたことを悟ると、寺に火を放ち自害。
- 信長の嫡男・織田信忠も二条御新造で奮戦するも、自害。
- 結果: 織田信長、信忠の死。明智光秀による天下掌握への試み。
事件の影響
- 信長の死により、織田政権は一時的に混乱。
- 豊臣秀吉が光秀を討ち、天下統一への道を歩むこととなる。
- 日本の歴史を大きく変える転換点となりました。
- 本能寺の変は、日本の歴史上非常に重要な出来事であり、多くの謎が残されています。
- 本能寺の変については、様々な解釈や説が存在します。
本能寺の変跡(本能寺の変が本当にあった場所)

本能寺の場所が三条坊門(今の御池)南の地に移された。
応永二十二年(1415)日隆上人が油小路高辻の地に本能寺を創立したが、後に破壊させたので、永亨五年(1433)に六角大宮に寺地を移して本能寺と改称された。天文十六、七年(1547,8)頃、第八世日承によって西洞院と小川との間の四条坊門(今の蛸薬師)の北の地に再興された。当時は広大な寺域を占め、織田信長の仮宿所となったが、天正十年(1582)六月二日に信長を攻めた明智光秀の兵火にあい、一山の堂塔をうしなった。
後に信孝が父信長の廟を建てたために本能寺は再びこの地に復興を見ることになったが、豊臣秀吉の区画整理により、天正年間に東京極(今の寺町)の三条坊門(今の御池)南の地に移された。
※この豊臣秀吉の区画整理にて多くの物が移動した、その一つが、五条大橋で『牛若丸と弁慶』の戦があった五条大橋も現在の場所に移った。
※この整備により京都市のまちの整備も進むことになる。
本能寺の変跡-場所情報
〒602-0947 京都府京都市中京区元本能寺南町
石碑は、本能寺自治会館前にたっており、同じ敷地に京都市立堀川高校と本能寺デイサービスセンターが併設してたっています。



ちなみに、京都市立堀川高校は偏差値の高い公立高校で、文部科学省「スーパーサイエンスハイスクール」指定校になっている高校なので、ほかの京都の公立高校と違い建物が綺麗です。(うらやましい)

※立て札は建物の少し入った場所に掛けられています。

アクセス方法
- 市バス最寄りバス停 四条西洞院 徒歩約4分
- 阪急電鉄京都線 大宮駅 徒歩約10分
※平日は、高校に隣接している為、人の出入りが多いいです。

まとめ
歴史ファンにとっては人気スポットです。