淀古城(淀城)豊臣秀吉の側室である淀君(茶々)が、豊臣秀頼を出産した城
淀古城は、京都競馬場の正面の門より西へ約九〇〇メートルのところに妙教寺という法華宗真門流の寺にあったとされ豊臣秀吉の側室である淀殿(茶々)が、豊臣秀頼を出産した場所として知られる歴史的なお城です。しかし、残念ながら現在の淀古城には目立った遺構は残っておらず、歴史的背景とわずかに残る石碑や地名から推測することになります。現在残る淀城跡とは別の場所となり、今回は豊臣時代に築かれた淀古城について記載させて頂きます。

淀の地の歴史(お城)
淀の地は、鴨川・宇治川・桂川・それに加えて木津川の合流する要衝であり、古くから商業の拠点として栄えました。このため、防衛上の重要性も高く、度々城が築かれてきました。
・築城の歴史を見ていくと、室町時代中期に、山城の守護であった畠山政長が応仁の乱に備えて築城したのが始まりとされています。木津川・桂川・宇治川の三川が合流する水陸交通の要衝に位置し、天然の要害でした。その後、細川氏が山城を掌握すると、摂津と河内の抑えの城として利用されました。
・織田信長:大坂城と安土城の中間地点に位置し、宇治川・鴨川・桂川と、それに加えて木津川の合流する土地に城を築けば、自然を利用した要害となり、また商業と交通の要衝ともなった。
・豊臣秀吉:1589年(天正17年)に豊臣秀吉が側室の茶々(後の淀殿)と長男鶴松のために築城したとされます。これにより茶々は「淀君・淀殿」と呼ばれるようになりました。その頃のお城を一般的には淀古城とよばれています。*江戸時代に築かれたお城を淀城と呼ばれています。
・明智光秀: 本能寺の変の後、明智光秀も一時、淀古城を改修し、山崎の戦いでも利用されたと言われています。
・廃城:文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見城を新しい本拠地として造営したことに伴い、淀古城は廃城となりました。
淀古城は、桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水運の要衝に築かれていました。現在は河川改修などにより当時の面影は薄れていますが、この地が古くから交通の要衝であり、軍事的にも重要な地点であったことを地形から感じることができます。
淀古城と淀君
豊臣秀吉:1589年(天正17年)に豊臣秀吉が側室の茶々(後の淀殿)と長男鶴松のために築城したとされます。淀古城に茶々が入り、そしてこの城に入ることで茶々ではなく「淀の方」「淀の者」「淀の女房」などと呼ばれるようになった。「淀殿」という呼び名は坪内逍遥(小説家、翻訳家、評論家、劇作家)の豊臣家の没落を描いた戯曲である「桐一葉」が明治期に上演されて以来、劇中で使われていた「淀君」という呼び名が一般に広まり、その後、井上靖が昭和35( 1960) 年に発表した小説「淀どの日記」によって一般に定着した。。
その淀君は、彼女の人生において最も優雅な時を淀古城で過ごしたのだった。 文献では淀の方が天正17年5月、鶴松を産んだという記述がある。
一、去廿八日開白殿淀 御內 男子誕生云々 事々数祝著云(「多聞院日記」天正17〔1589年5月晦日の条)秀吉は後継者ができたことで大いに喜び、祝宴まで催した。
淀君は幸せな時を5年間、この城で過ごした。 しかしながら天正19年8月、鶴松が僅か三歳で亡くなってしまう。淀の方は気性の強い人なので、尤物を持って周囲に艶やかさを見せつけてその年のうちに淀城を去ることになる。
その後の文禄元(1593)年、木村常陸介が十五万石をもって淀城に入った。 常陸介は淀城に入ると、さっそく二の丸の整備および城壁の補修工事をおこなったのであるが、その翌年の文禄2(1594) 年8月、淀の方は大坂城へ移ってから捨丸(秀頼)を二の丸御殿で産む。ふたたび秀吉の嫡男を産んだことで、尚一層、豊臣政権のなかにおいて権力を手に入れることとなる。
秀吉は第二の都として淀の地を整備するため淀城を取り毀すことにし、文禄3(1595)年3月18日、淀城は廃城となった。
淀の方が去ってから三年後のことであった。
淀古城の見どころ(妙教寺境内)
淀古城の石碑(妙教寺境内)


●淀古城の本丸推定地とされる妙教寺の境内に、淀古城を示す石碑が建てられています。淀古城の歴史を偲ぶ唯一の目に見える遺構と言えます。
●妙教寺自体も、鳥羽・伏見の戦いで激戦地となり、本堂には砲弾の貫通跡が残されているなど、歴史の面影を感じられます。
現在、淀古城の跡地とされる場所の一角に建つ妙教寺(みょうきょうじ)の境内に、淀古城の石碑が建てられています。これが、淀古城があったことを示す唯一の目に見える遺構といえるでしょう。

淀古城の見どころ(唐人雁木旧跡)(


「唐人雁木(とうじんがんぎ)」とは、江戸時代に朝鮮国王から将軍の代替わりや慶事を祝うために派遣された「朝鮮通信使」が上陸した船着場の跡地のことです。
「唐人」とは朝鮮通信使を指し、「雁木」とは船着場に設けられた階段を意味します。朝鮮通信使は、対馬から瀬戸内海を経て大坂へ到着し、そこから川船に乗り換えて淀川を遡り、淀城下(現在の京都市伏見区納所町周辺)で上陸しました。そこで休憩または宿泊した後、京都を経て東海道を通り江戸へと向かいました。この上陸地点が「唐人雁木」と呼ばれています。
1748年(延享5年)に朝鮮通信使が到着した際の絵図には、仮設の舞台のような船着場が描かれており、本来の意味での「雁木(階段)」が使われたわけではなかったようです。
現在、「唐人雁木旧趾」として石碑が建てられています。最初の石碑は1928年(昭和3年)に建立され、現在は淀城跡公園内に移設されており、1990年(平成2年)に建て替えられた石碑が京都市伏見区納所町にあります。
淀地域は、桂川・宇治川・木津川の三大河川が合流する水運の要衝であり、古くから京都への交通・物流の拠点として重要な役割を担っていました。

場所情報
妙教寺(淀古城)
〒612-8279 京都府京都市伏見区納所北城堀49
☎075-200-5055
唐人雁木旧跡3>
〒612-8275 京都府京都市伏見区納所町 千本 通
アクセス方法
妙教寺(淀古城)
京阪本線「淀駅」で下車し、徒歩10分です。
まとめ
秀次事件において、淀古城は直接的な舞台となったわけではありませんが、その城主が秀次事件に巻き込まれる形で廃城となりました。
文禄元年(1592年)に木村重茲が淀古城の城主となります。しかし、文禄4年(1595年)の秀次事件において、木村重茲は秀次を弁護したことから連座の罪に問われ、自害を命じられました。これにより、淀古城も廃城となってしまいました。


