天下分け目の天王山 山崎合戦古戦場
「天下分け目の天王山」という言葉の語源となった山崎合戦は、天正10年(1582年)の本能寺の変後、織田信長の跡目をめぐり、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と明智光秀が激突した戦い場所です。
その古戦場は、京都府と大阪府の境にある京都府大山崎町一帯に広がっています。

天下分け目の天王山 山崎合戦の歴史
山崎合戦は、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀と、中国地方から急いで引き返してきた羽柴秀吉が、天正10年(1582年)に山城国(現在の京都府)山崎で戦った合戦です。この戦いは「天下分け目の天王山」としても知られ、日本の歴史を大きく動かした重要な戦いとなりました。
山崎合戦の歴史的背景
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本能寺の変と「中国大返し」: 1582年6月2日、家臣の明智光秀に裏切られ、織田信長が京都の本能寺で自害しました。このとき、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉は、信長からの援軍要請を受けていましたが、急報を聞きつけ、毛利方と和睦を結び、約200kmの道のりをわずか10日足らずで引き返すという「中国大返し」を決行しました。
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両軍の布陣:
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羽柴秀吉軍: 中国大返しで急行した秀吉軍は、天王山の麓に約4万の大軍を布陣。秀吉は天王山の麓にある宝積寺に本陣を置いたとされています。
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明智光秀軍: 光秀軍は、天王山と淀川に挟まれた狭い地形を利用し、約1万数千の兵力で迎え撃ちました。本陣は、恵解山(いげのやま)古墳や御坊塚に置かれたと推定されています。
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天王山と山崎合戦

「天下分け目の天王山」という言葉が有名ですが、天王山そのものが主戦場になったわけではありません。天王山は、山崎の地を見下ろすことのできる戦略的に重要な場所であり、秀吉がこの山をいち早く占拠したことが勝敗の行方を大きく左右したとされています。秀吉軍は天王山に旗を掲げて士気を高め、光秀軍は劣勢に立たされました。
合戦の経過と結末
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開戦: 1582年6月13日、円明寺川を挟んで両軍が対峙し、戦闘が始まりました。
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秀吉軍の勝利: 数に勝る秀吉軍に対し、光秀軍は徐々に押されていきます。特に、明智軍の主将であった斎藤利三が討ち取られると、明智軍は総崩れとなりました。
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光秀の最期: 光秀は一度、本拠地である勝竜寺城に逃げ帰りましたが、再起を図るため坂本城を目指して脱出しました。しかし、その途中の小栗栖(現在の京都市伏見区)で、落ち武者狩りの農民に襲われ、命を落としたとされています。これにより、光秀の「三日天下」は終わりを告げました。
現在の状況


天王山夢ほたる公園に石碑があります。

周辺景色



京都縦貫自動車道の下にあります。



乙訓景観十景 天王山


天王山夢ほたる公園

ホタルの保全地: 公園の近くを流れる小泉川はヒメボタルの生息地として知られ、毎年5月中旬頃にはホタルの舞を楽しむことができます。
場所情報
〒618-0091 京都府乙訓郡大山崎町円明寺松田(天王山夢ほたる公園)
アクセス方法
・天王山夢ほたる公園内駐車場あり(無料)
・JR京都線 山崎駅 :徒歩 31分 2.2km
・阪急京都線 大山崎駅:徒歩 29分 2.1km
・阪急京都線 西山天王山駅:徒歩 20分 1.4km
まとめ
山崎合戦は、織田信長亡き後の天下の趨勢を決定づけた重要な戦いであり、その舞台となった天王山一帯は、日本の歴史を語る上で欠かせない場所となっています。


