伏見城の歴史! 豊臣秀吉 徳川家康ゆかりのお城!

京都伏見にある伏見城、戦乱の時代に建てられたお城で実は4回建てかえられており、最後は破壊工事で建物から石垣まですべて持ち去られたお城になります。その歴史について記載しました。

第1期(1592~1594年)伏見城(指月伏見城)

第1期指月伏見城、豊臣秀吉が関白職を甥の豊臣秀次に譲った文禄元年(1952年)に築き始めた城である。

場所は、宇治川に臨む通称「指月の岡」(現・京都市伏見区桃山町泰長老)を中心とする地であった。この城は「大閤隠居所・大間隠居城」と呼ばれていたように、「太閤(前関白)」としての秀吉の隠居城として構想されたものだったらしい。したがって、第1期指月伏見城はあまり規模の大きくない城郭風邸宅というものにとどまっていたのであろうと推測されている。

※第1期指月伏見城がようやくその姿をあらわしはじめた文禄2年(1593)8月、秀吉の側室(茶々、淀殿)が秀頼を生んだことにより構想が変わっていく。

指月伏見城があった場所

指月伏見城は豊後橋(現在の観月橋)の北東に築かれたと考えれれている。

指月伏見城復元案
京都市大規模公団開発の時に出土した指月伏見城跡

京都市の大規模公団工事時に発堀された指月伏見城跡の堀と石垣、現在は公団が大規模公団が建っている。ライオンズ伏見桃山 指月城に展示パネルがあります。l、

第2期(1594~1596年)伏見城(指月伏見城)

第1期指月伏見城がようやくその姿をあらわしはじめた文禄2年(1593)8月、秀吉の側室(茶々、淀殿)が待望の嫡男、秀頼を生んだ。関白秀次を政権の後継者としていたこれまでの構想を修正するとともに、自らの本城とするために伏見城の改築にとりかかる。 第2期指月伏見城がこれである。第2期指月伏見城は第1期指月伏見城と場所は同じで拡張したものである。文禄3年(1594)正月に改築工事は始められ、同年秋にはほぼ完成したといわれている。ただし、その後も工事は続けられていた。翌年、秀吉は英次を自殺させると同時にその居城であった聚楽第を破却し、その建造物の多くを第1期指月伏見城に移築している。さらに慶長元年(1596)には、続行中であった朝鮮侵略戦を終結させるため、明の冊封使が来日することになったため、秀吉はこの使節を迎えるために、第2期指月伏見城をより豪華に修築することになる。完成した第2期指月伏見城の建築物は、内外ともに金箔を惜しげもなく使用した豪華絢爛たるものであったという。秀吉はこの城を舞台として対外戦争の成功を宣伝し、自己の政権の威信を高めることをもくろんだ。しかし、明使との接見を目前に控えた慶長元年(一五九六)7月13日、突如として大規模な地震が畿内地方を襲った。その被害は京都を中心として西は四国東部、東は近江南西部にまで及んだ が、中でも大きな被害を受けたのは第2期指月伏見城とその城下町であった。第2期指月伏見城は、全壊したといわれている。

第2期指月伏見城の崩壊を目の当たりにした秀吉は、ただちに場所を変えて伏見城の再建に着手した。新たに城地に選ばれたのは、第一・二期指月伏見城のあった指月の岡の東北方にそびえる木幡山(現・伏見区桃山町の明治天皇陵域内)であった。これが第三期木幡山伏見城である。秀吉は晩年を過ごし、慶長3年(1598)8月18日に63年の生涯を閉じたのもこの城においてのことであった。その後、江戸時代この城の跡地は「桃山」と呼ばれることになり、秀吉の時代のことを「桃山時代」と呼ぶ慣例はここからおこったものといわれている。

第3期(1596~1600年)桃山城(木幡山伏見城)

木幡山城があった場所

木幡山伏見城復元図

木幡山桃山城があった場所と木幡山伏見城復元図を見て頂いてわかる通り、そのほとんどが明治天皇伏見桃山陵になり、本丸の位置が明治天皇伏見桃山陵の中心部に位置するため、調査ができない状況になります。※現在の地図上にある木幡山伏見城(伏見桃山城)は昭和39年に建てられたものになります。googleMAPでも二の丸があった場所は確認できますが、本丸は確認することができません。

現場での写真です。

その周りには伏見城石垣に使用されたと思われる石材があります。

本丸に位置する場所には明治天皇伏見桃山陵があります

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秀吉薨(死)後の伏見は、政権の奪取を伺う狙う徳川家康とそれを阻もうとする石田三成らとの政治闘争の場となった。家康は大坂城の豊臣秀頼の大老という名目で第3期伏見桃山城に入ったため、実質的には家康の居城となる。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前哨戦では徳川家の武将であった鳥居元忠・松平家忠らが伏見城を守ったものの、三成をはじめとする西軍の猛攻を受けて落城し、完全に焼失してしまう。

第4期(1600~1623年)伏見桃山城(木幡山伏見城)

関ヶ原の戦いに勝利して政権を握った徳川家康は、ただちに伏見城の再建にとりかかった。第四期伏見城(木幡山城)になり、焼失した第3期伏見城の跡地が最大限に利用されたと推定される。

慶長8年(1603)に家康が征夷大将軍に任じられたのもこの城においてのことであった。家康は二年間の将軍在任中ほとんどの期間を伏見ですごし、徳川家康政権は「伏見幕府」であったといっても過言ではない。伏見桃山城はその後も徳川政権の上方における拠点として大いに活用されるが、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡するとともにその役割を終えることになる、元和9年(1623)、三代将軍家光が将軍宣下式を執行したのが伏見桃山城の最後の輝きであり、それを終えるとすぐに伏見城は廃城となった。廃城に伴う破却工事は徹底したものでありったと伝えられており、建物はもちろんのこと石垣の石材もほとんど持ち去られたと伝えられている。

現在の伏見城(伏見桃山城)

伏見城(伏見桃山城)場所

所在地: 〒612-8051 京都府京都市伏見区桃山町大蔵

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アクセス方法

お城内の拝観はできないのでご注意ください。

  • JR奈良線桃山駅下車、北東へ徒歩約1.5km 徒歩17分
  • 近鉄京都線桃山御陵駅下車、東へ徒歩約1.8km 徒歩20分
  • 京阪本線伏見桃山駅下車、東へ徒歩約1.9km 徒歩21分

※上り坂が続きます。

また、駐車場もあるので車で訪問されることをお勧めします。

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