明智藪 明智光秀最期の場所

明智藪、「本能寺の変」で織田信長を討った明智光秀が、天下分け目合戦で敗れて坂本城に戻る際に、討たれたとされる京都の小栗栖(おぐりす)光秀最期の地!

明智藪

目次

明智光秀

明智光秀は、鎌倉・室町時代に美濃国(岐阜県)を中心に栄えた土岐氏の一族、明智氏の出自とされる。通称は十兵衛で、下克上の戦国時代に、その卓越した智謀を持って、織田信長随一の家臣として、豊臣秀吉と肩を並べる存在となる。本能寺の変によって信長を裏切り、天下を取ろうとしたが孤立し、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)の合戦でも敗戦する。最期は、当時小栗栖(京都市山科区)で命を落とし、わずか十数日の天下となった。

明智光秀最期の場所

その最期を、少し詳しく説明すると、天正十年(1582)五月、備中(岡山県)の毛利氏を攻めていた羽柴(豊臣)秀吉を助けるため、光秀は、信長から備中に出陣するように命じられる。六月一日、備中に出陣のため、13,000の兵を率いて丹波亀山城を出発した光秀は、老ノ坂(亀岡市と京都市西京区の境)を超えると、備中に向かわず、二日未明に洛中に入り、信長の宿所本能寺を急襲し、信長を倒す。

その後、近江(滋賀県)の安土城を乗っ取り、近江・美濃(岐阜)・洛中を収め、備中から京に引き返してきた秀吉を迎え撃とうとしたが、親しい仲だった細川藤孝・忠興や筒井順慶、高山右近など諸将の協力を得られず、山崎の戦いにおいて大敗を喫し、勝竜寺(京都府長岡市)から坂本城(滋賀県大津市)に逃れる途中、当地小栗栖において、命を落としたとされる。

その最期は多くの書物や日記にかかれているが、『信長公記』をかいた太田牛一が慶長十四年(1609)にまとめたとされる『太田牛一旧記』は史料的に信ぴょう性が高く詳細な記述があるため見ていくと下記の様に記述されています。

光秀の最期の場所については、小栗栖の細道の上の小藪が光秀最期の地とされている。

細道に戦からの落人(おちびと)が多く通ることを「百姓共」が知り、細道の小藪の中で「がめつきやり」というさびて腐っているやりをもって待っていたところ、馬に乗った明智の落人が十騎ほどで行くので、藪越しにやりをついたのだが、人多い中、明智日向守(光秀)の腰骨につきあたった。

その後、藪から二三町(約2,300メートル)行ったところで、光秀は家臣に介錯(首をはねるよう)頼み、その首を毛氈(もうせん)の鞍おおいに包んで、知恩院へ運ぶゆにつたえている。

ここで、光秀を刺した者については、「百姓共」のうち「誰ともなく」と明記はないが、明智藪が飯田氏の居城である小栗栖城のすぐ際にあることなどから、小栗栖地域では、光秀を刺したのは、飯田氏であると伝えれれている。

明智光秀胴塚

光秀の伝承が残る史跡について、先に述べた明智藪が有名であえるが、その他にも史跡がのこっている。明智藪から1キロメートルほど北に行った山科区勧修寺御所内町に、明智胴塚がある。現在は工場の一区画にあるが、昔は田の中にあったようだ。言い伝えによると、深傷のため遂に起つことができず家臣に命じて首をきらせ、遺骸をこの地にうめたとされる。

昭和三十年代の明智光秀胴塚

しかし、明智光秀ほどの武将の亡骸が人知れず田の中に埋めることはあまり考えにくい、江戸時代の元禄(1688~1704)に成立した「明智軍記」などにより、「明智藪より北へ三町の辺りで自決した」という話が広がり、後世建てられた供養塔と考える方が良いのかもしれないと多くありました。

さらに地元の醍醐の史料によると、明智胴塚からさらに北に300メートル行くと、明智馬塚跡があったとされる。現在は貯水池になっているが、光秀の乗馬を埋めたところと伝えられる。戦前にこの場所を掘ったところ、馬の骨がでてきたようである。

明智光秀の首について

光秀の首の最期については、諸説存在しているため、いくつか紹介します。「明智軍記」には、家臣の溝尾庄兵衛が京都の妙心寺に運び埋葬しようとしたが、敵にみつかることを恐れ、首を隠し自らも自決したとされる。しかし、敵将に首を見つけられ、秀吉の元に届けられるとなっている。

「明智軍記」の記載は具体的であるが、資料的価値については疑問も多いため、他の史料も確認していく必要がある。「太田牛一旧記」には行方をくらましていた斉藤内蔵助(利三)を探し出して捕らえ、洛中を引き回し、光秀の首を継がせて、両人ならべて粟田口に磔にしたのだという。先の述べた通り。自分の首を毛氈(もうせん)に包んで知恩院に持っていくよう光秀が家来に言い残したが、それを実行した家来が斉藤利三であり、知恩院に届けられず自ら持って行方をくらましていたが、捕まった言われている。首は一度自決の際、介錯で胴体から離れたが、磔の際に再度継ぎ合わせたと言われている。

なお、粟田口に近い京都市東山区西小物座町には、光秀の首塚が存在していた(現在は梅宮町に移転している)。首が埋められたのか供養塔なのかはさておき、この記述と一致しており興味深い。「太田牛一旧記」は、史料的な信ぴょう性も高いとされており、確かではないかと考えられる。

また、江戸時代に書かれた「都名所図会」や「山城名勝志」には、土民(地方民)の話として、南北小栗栖の間に深草からでてくる坂道があり、そこは、明智光秀が勝竜寺城から坂本城に向かう際通った道として「明智超」と呼ばれていると書いている。

明智光秀の後世への影響

明智光秀は江戸時代や明治時代に、人形浄瑠璃や歌舞伎の題材として盛んに扱われた。人形浄瑠璃では「三日太平記」、歌舞伎では、雨下知桔梗旗上(あめがしたしるききょうのはたあげ)など、様々な作品が製作された。

大正時代には、岡本綺堂によって「小栗栖の長兵衛(おぐるすのちょうべい)」という歌舞伎の戯曲(演劇の台本)がつくられ、市川猿之助などが上演した。小栗栖村で蝮(まむし)の異名をとる無法者として、身内や村人たちに嫌われている百姓長兵衛が、山崎の合戦から落ち延びてくる光秀を竹槍で刺し、褒美を受ける。それにより、身内や村人たちは打って変わって長兵衛を誉め、英雄扱いにするという話である。ここで光秀を打ったのは百姓となっているが、江戸時代から続く「明智光秀物」などから引用された話と考えられる。

また、明智光秀の関わる有名な故事も現在に残っている。特に、その天下取りの期間が短かったことから「三日天下」(実際は3日ではないが、極めて短い事の形容)という言葉が広まった。また、光秀と秀吉が天下をかけ、大山崎町の天王山のふもとで戦った「山崎の戦い」は「天下分目の天王山」称され、「天王山」という言葉は、野球などスポーツや政治で勝負を決める重要な戦いを指す言葉として現在でも使われている。

明智藪・明智胴塚の場所

明智藪場所&アクセス方法

地下鉄醍醐駅から徒歩18分 1.3Km

地下鉄石田駅から徒歩13分 950m

明智藪 1.8km 徒歩22分

明智胴塚

地下鉄醍醐駅から徒歩15分 1,2Km

地下鉄小野駅から徒歩10分 700m

明智藪から徒歩22分    1.8Km

※醍醐駅にはショッピング施設・食事などをする場所があるので行き帰りどちらかで醍醐駅を経由する事をおすすめします。

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駐車料金

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  • 【お問い合わせ先】京都醍醐センター(株) TEL:075-575-2550

光秀藪現在の状況

土地開発中で寂しいですね。

2020年1月1日現在

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