芥川龍之介の小説の羅生門モデルになった羅城門、今は!

芥川龍之介が書いた羅生門、皆さんも一度は読んだことのある、お話だとおもいます。現在、羅生門はどの様になっているかご存知でしょうか!

羅城門

目次

羅城門といえば、芥川龍之介の羅生門のイメージしませんか!

平安京を造営する際に、表玄関として建てられた正門。

しかし、倒壊後は荒れはてて、鬼と盗賊の住処と化した都の正面玄関。

それは「今昔物語」本朝世俗部巻二十九「羅城門登上層見死人盗人語第十八」を基に、巻三十一「太刀帯陣売魚姫語第三十一」の内容が下書きになっている。

生きるための悪という人間のエゴイズムを克明に描きかれた小説である。

羅生門の話

摂津から都に来た盗賊が羅城門の楼上に登ると、老婆が一心不乱に死体の頭髪を抜いていた。きくと、かつらにするのだという。すると、盗賊はその髪の毛を奪い、さらに老婆と死体の着物を剥ぎ取って去った。
『今昔物語集』は、平安時代末期に成立した話なので、つまり、当時の人々にとって、すでに羅城門は「恐ろしい場所」と認識されていたのだ。実際、門の倒壊後は周辺が盗賊の住処となり、さらに鬼が現れるようになったという伝承も残る。

建設当初の状況

延暦13年(794)、桓武天皇が平安京を造営した際、朱雀大路の南端に、都の表玄関として羅城門が建てられた。

羅城門は、都の正門というだけあって壮麗な楼門だったという。
正面は横幅約32メートル、奥行き8メートル、二層構造の重厚な作りで、瓦葺の屋根の両端を飾る鳩尾(しび)は黄金に輝き、当時の平安京の威容を象徴していた。

かつて朱雀門から羅城門まで、平安京を南北に貫いた朱雀大路は、道幅が85メートルみ及んだ都の目抜き通りで、両端には溝、犬走・垣が設けられて並木として栁が植えられていた。朱雀門から羅城門まで約4キロメートルの及ぶ主要大通りだった。

羅城門復元イラスト(南東から)

昔の地図と現在の地図と合わせた地図

その後、さびれていく

弘仁7年(816)には台風で倒壊。再建されるも天元3年(980)にまたも防風雨で損傷し、その後は修復されないまま、やがて一帯はさびれ、いつしか死体の捨て場になったという。

現在の羅城門

現在は、滑り台とシーソーが1基づつしかない寂れた小さな公園になっています。

唐橋羅城公園

寂しい公園です。

羅城門跡場所

〒601-8453 京都府京都市南区唐橋羅城門町54

行き方

京都市営バス「羅城門バス停」(16・18・特18・78・202・208号系統)下車 徒歩約1分
近鉄京都線「東寺駅」駅下車 西へ徒歩約12分

市バス羅生門バス停より歩いて1分になりますので、市バスの利用がお勧めです。
※このエリアはバスの本数も多いいです。

羅生門

芥川龍之介の短編小説『羅生門』は、平安時代末期の京都を舞台に、生きるための悪をテーマに描いた作品です。


物語は、ある雨の日に、羅生門の下で雨宿りをする下人が、そこに捨てられた死人の着物に目が止まり、それを奪い取ろうとするところから始まります。下人は、死人の着物が他人の目に触れる前に奪い取れば、誰にも罪に問われることはないと考えていました。しかし、そのとき、羅生門の陰から、同じように死人の着物を奪おうとする女が現れます。

2人は、死人の着物をめぐって争いになり、ついには下人が女を殺してしまいます。下人は、女を殺したことに罪悪感を覚えますが、生きるためには、このような悪も必要だと自分に言い聞かせます。

そして、下人は、女を殺した罪から逃れるために、羅生門の上に登り、死人の着物を脱ぎ捨て、その下から姿を消します。

この作品は、生きるための悪をテーマに描いた作品ですが、その悪は、単に人間の弱さや愚かさから生まれるものではなく、当時の社会状況や人間の心理を反映したものとも解釈できます。

平安時代末期の京都は、内乱や飢饉などにより、社会が混乱し、人々の生きていくのが困難な時代でした。そのような時代において、生きるためには、他人を犠牲にしてでも自分の身を守らなければならないという考えが、人々の間で広まっていたと考えられます。

また、この作品は、人間の心理の複雑さも描き出しています。下人は、女を殺したことに罪悪感を覚えますが、同時に、生きるためには、そのような悪も必要だと自分に言い聞かせます。このことから、人間の心理は、善と悪が混在しており、どちらを選ぶかは、そのときの状況や感情によって左右されるものであることがうかがえます。

『羅生門』は、人間の悪と心理の複雑さを描いた、芥川龍之介の代表作のひとつです。この作品は、現代においても、その普遍的なテーマ性から、多くの人に読み継がれています。

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